一本の映画から五分の魂

たかが二時間、されど二時間。

第4回:映画『スリー・ビルボード』公開前に『セブン・サイコパス』のことを考える。

みなさんどうも。4回目の更新となりました。

先日のゴールデングローブ賞、映画部門では『スリー・ビルボード』(原題:Three Billboards Outside Ebbing, Missouri)という映画が「作品賞」「監督賞」「脚本賞」「主演女優賞:フランシス・マクドーマンド」の最多四冠を受賞しました。

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本作を監督したのは「マーティン・マクドナー」(Martin McDonagh)という人です。『スリー・ビルボード』は未見なので何も書けませんが、彼が監督した『セブン・サイコパス』(原題:Seven Psychopaths)という映画がありまして、これが前作にあたります。タイトルにも書いたように、今回はこの『セブン・サイコパス』について取り上げていきます。

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マーティン・マクドナーさんが監督した長編映画はまだ"4作品"しかありません。2004年『Six Shooter』、2008年『In BRUGES』(日本では『ヒットマンズ・レクイエム』というタイトル)、2012年『セブン・サイコパス』、2017年『スリー・ビルボード』という流れ。だいたい4年に一本くらいのペースで映画を製作しています。どの作品も「監督」「脚本」を自らで手がけており、『セブン・サイコパス』からは、プロデュースも自分で行っています。「作りたいものを作る」というタイプの監督だと推察でき、"作家性"のある映画作家だと思います。全フィルモグラフィを追いかけるのも容易なので、これも良いところ。出演する俳優もフィルモグラフィーで見ると連続していたりするのも面白いです。

 

さて、本題の『セブン・サイコパス』ですが、まず始めに言ってしまうと率直に「変わった映画」です。タイトルの意味はそのまま「七人のサイコパス」となり、映画本編にも実際「7人」のサイコパスが登場します。ですが、例えば「七人の侍」とか「荒野の七人」のような映画ではまったくないです。七人のサイコパスが何らかの理由で手を組んで巨悪を討つ!みたいな、最近だと『スーサイド・スクワッド』的な、そんな映画では全くありません。

 

この映画をジャンルで表現するなら「ヴァイオレンス」と「コメディ」です。広義のドラマ映画ではありますが、基本的にはコメディ映画であり、主演のコリン・ファレルの演技テンションもそんな感じです。

 

あらすじとしては、新作映画のアイデアに煮詰まった脚本家(コリン・ファレル)、その友人(サム・ロックウェル)が脚本作りを手伝うため、新聞広告に「サイコパスの皆さん、脚本作りを手伝って下さい」と書いたら、あれよあれよとサイコパスが集まってきちゃって、さあ大変!!というお話です(ちょっと違うか・・・)。手っ取り早く、予告編を貼っておきます。

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さあ大変!!と書きましたが、ドタバタコメディ!!という感じではなく、転がっていく物語そのものは結構シリアスで、笑えたりもするんだけど、どこか淡々と、イカれた人たちとイカれた物語が進行していきます。なんとなく「面白そうじゃん!」くらいの気持ちで鑑賞すると「あれ?思ってた感じと違った」と、場合によっては落胆することもあるかもしれないので、この映画を楽しんで見るための私なりのアドバイスというか解説をこれから書いていきます。

 

セブン・サイコパス』というこの映画、「七人のサイコパス」「映画の脚本づくり」「バイオレンス描写」などといった要素を使って、マーティン・マクドナー監督が何を描きたかったのか。それは・・・

 

「バイオレンス映画についての考察」だと、私は思いました。

 

なぜかという理由はいくつかあるのですが、まずひとつは、コリン・ファレル演じる脚本家の主人公とサム・ロックウェル演じる友人はたびたび「新作映画にバイオレンス描写は入れるのか」というやり取りをすることです。コリン・ファレルはありきたりな暴力描写に飽き飽きしており、観客が「求めるもの」を「求められるまま」に描いたり、入れたりするのは気がひけると言います。それに対してサム・ロックウェル「そんなのつまんない!」と、ある程度は理解しつつも駄々をこねたりする。本筋の物語と並行して描かれる劇中劇においても、コリン・ファレルがイメージする映画と、サム・ロックウェルのイメージする映画には暴力性において差異があります。アメリカ映画(ブロックバスターでも何でも)には、多くの映画と暴力が登場し、映画における「暴力」や「死」は必需品といっても過言ではないレベルではあるのですが、それも一枚岩ではなく、それを「どう使うか・どう描くか」によって、物語は多種多様に変化します。その「どう使うか・どう描くか」こそ、「脚本家」や「監督」の手腕の発揮どころであり、「映画演出」の醍醐味でもあるので、それに関する考察はとても興味深く、『セブン・サイコパス』という映画の面白さは、その特異な物語やキャラクター以上に、根底や背景に潜む「バイオレンス映画への考察」といった、一種の「俯瞰的視線」にあります。

 

物語の終盤、ある登場人物同士のいざこざにより、「人質の引き渡し」的な展開が起きます(その展開における人質が「ギャングの愛犬」というのが笑える)。そこで、ある登場人物がこう言います。

 

「銃は持ってきてるか?なんだよ!持ってきてねえのかよ!ふざけんな!盛り上がんないじゃん!あ!この照明弾!これ銃だよね!銃ってことにしていいよね!?」

 

観てない人にはよくわからないシーンだとは思いますが、このセリフとこれをいう登場人物の姿は、仮定ではありますが「映画の観客」の投影なのではないかと考察できます。人気のない荒野、銃を持った男が二人、人質の引き渡し、このシチュエーションで「銃がない」、もっと言えば「バイオレンスな展開」が起きないなんてあり得るのか、と。仮定の観客の求める「ある要素」と「ある要素」が組み合わさったその先には「暴力性」の強い展開があり、そこにこそ観客はワクワクする。たしかにそれは間違いじゃないけど、それが全てではないよね。全部が全部、そうじゃないといけないわけじゃない。たまには期待を裏切るような、ある種「観客が求めていないような映画」があっても良いんじゃないかと。そう訴えかけているようにも見えてくる。

 

クリストファー・ウォーケン演じる老人の物語では、「夢オチ」に関する肯定的な解釈が描かれます。「君が聞かせてくれた悲しいベトナム兵の物語。セオリー的には夢オチはなしだと思うけど、使い方によってはこんな物語も描けるよね。その夢オチ展開によって、こんな物語を描くこともできるよ」と。

 

つまりこれは、映画や脚本、いや"物語"を描こうとする時に「観客のウケ」ばかり狙ってないで、もっとイマジネーションを働かせようよ!ということを描いているように私は考察しました。今の時代、この事は思っている以上に「重大」な問題やテーマであることはわかると思います。

 

ただ、皮肉なことではありますが『セブン・サイコパス』という映画そのものも「暴力性」の高い映画に仕上がっています。しかし、その「皮肉さ」というのは一種のメタ構造であり、「あえて、狙って、やっている」ことなので、そこにはブラックなユーモアさがあるんです。マーティン・マクドナー監督が脚本とプロデュースまでした作った映画。「作りたい映画、描きたい物語、伝えたい何か」があり、それを自らの手で一から作り上げているマーティン・マクドナー監督は今後もいろんな意味で注目の映画作家でしょう!そんな視点も心の隅にちょっと置いて、本作を楽しんでみてください!『セブン・サイコパス』は『スリー・ビルボード』の鑑賞前にオススメの一本です!

 

最新作の『スリー・ビルボード』、日本では「2018年2月1日(木)」より全国公開。早く観たい!

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